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六波羅浄心苑 六波羅浄心苑

六波羅蜜寺の自然葬は樹木葬です。
六波羅蜜寺「六波羅浄心苑」は 万葉の時代から行われていた自然葬に近い弔いの方法で、 杉苔(すぎごけ)の下、地中深く埋葬されるお墓です。
「六波羅浄心苑」の樹木葬は永代供養なので無縁になる心配は ありません。 お墓の継承者がいなかったり、無縁への不安を抱えた人、 また一人暮らしや子供に負担をかけたくないと考える現代人にも 安心でやさしいお墓のかたちです。 利用者は、それぞれの区画に埋葬されることになります。個人墓であり集合の墓でもあります。

没後33回忌まで、春に毎年、合同法要祭をおこない墓友が集います。 33回忌以降は土となったご遺骨の一部 を六波羅蜜寺内の総墓へ遷座(合祀)し、 引き続きご供養します。

浄心苑全景

六波羅浄心苑

樹木葬とは

1999年岩手県一関市「祥雲寺」に始まった「樹木葬」は「散骨」同様、新しい葬法として注目されています。
散骨と同じ自然に還るという葬法ですが、違う点は墓地域に埋葬されるため「墓埋法」に則っており、散骨のように遺骨を砕骨する必要がないこと。
近年、墓参に便利な都市近郊においても、作られるようになり人気が高い葬法です。
樹木葬を選んだ理由としては、

  • 「自然に還ることができる。地中深く埋められた遺骨が花木の栄養となり生まれ変わる」
  • 「継承者がいなくてもいい」
  • かかるのが少額の会費と納骨時の費用だけであり「子どもたちに負担をかけない」

といったところが人気です。

六波羅蜜寺について


【六波羅蜜寺の歴史】

 六波羅蜜寺は天暦5年(951)
醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所。
当時京都に流行した悪疫退散のため上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍(かんきゆやく)しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。
現存する空也上人の祈願文によると応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬燈会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こり。
上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。
寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。
現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。
なお解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり平安、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。

【開山の空也上人】


第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。

再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。

天暦2年(948)叡山座主延昌より大乗戒を授かり光勝の称号を受けた。

森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日あることを喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。

上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖(いちのひじり)」と呼び慣わした。


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